2019年11月、阪急うめだ本店で民博コレクションの展示

国立民族学博物館コレクション
世界のかわいい衣装

終了しました。たくさんの方々にご来場いただき、ありがとうございました。

Handmade Dresses of the World:
The National Museum of Ethnology Collection

会期:2019年11月13日(水)~25日(月)

会場:阪急うめだ本店9階 阪急うめだギャラリー

本展では、みんぱくコレクションのなかから、「かわいい」をキーワードに選んだ、1920年代から現在までの衣装約120点が展示されます。世界各地で育まれてきた手仕事による鮮やかな色彩、地域独特の文様、形や着方の多様さを紹介します。ぜひ、足をお運びください。


国立民族学博物館

阪急百貨店うめだ本店

理事長徒然草(第6話)
「篠遠喜彦夫妻の思い出―『季刊民族学』169号の特集に寄せて」

『季刊民族学』169号(2019年7月)の特集「オセアニア考古学の挑戦」が無事刊行されました。その副題に「篠遠喜彦の足跡から」とあるように、これは追悼号でもあります。篠遠先生はオセアニア考古学のパイオニアの一人でもあり、泰斗と称しても過言ではない研究者でした。その偉大な学術的足跡は特集にあますところなく書かれていますし、民博のオセアニア展示への貢献についても十分に述べられています。また、民博の梅棹忠夫初代館長との対談も『月刊みんぱく』(1979年3月号)に「太平洋の研究センター」として掲載され、梅棹忠夫編『博物館の世界―館長対談』(中公新書、1980年)にも再録されています。

オセアニア研究者でも考古学者でもないわたしが篠遠先生と接点をもったのは日本人移民の研究でした。1977年、東大宗教学研究室を中心とするハワイの日系宗教の科研調査に従事していたとき、ビショップ博物館に設立されていたハワイ移民資料保存館のことを知り、何人かで訪問したことがあります。日時は7月14日(木)の午前中でした。当時、篠遠先生はビショップ博物館の考古研究部の部長でしたが、和子夫人が移民資料保存館の管理にあたっていました。われわれはまず奥様とお目にかかり、博物館の常設展示を案内していただき、途中から篠遠先生もくわわり、懇切な説明をうけました。カプ(タブー)や呪術のこと、樹皮布のタパやそれを使ったカプ・スティックのこと、また羽毛の所持は王族のみが許されることなど当時のメモには記されていますが、そのときの記憶では「マルケサス」が呪文のように聞こえていました。ハワイアンはマルケサス諸島から移住したのだという考古学的発見について先生が熱心に語っておられたからです。今回の特集ではそのことをより深く学ぶことができました。ちなみに、日本人移民の資料のことを奥様からうかがったのは移民資料保存館においてでしたが、本館展示を見た後だったような気がします。

その2年後にも日系宗教の現地調査をしましたが、篠遠夫妻にはお目にかかっていません。その後、1981年にもカリフォルニア調査を科研費で継続しましたが、ハワイには立ち寄りませんでした。わたし自身も1983年以降、ブラジルの日系宗教調査に重点を移したため、ハワイを含むアメリカとは疎遠になりました。ところが、1999年夏、梅棹先生がJICA本部から海外移住の資料館建設の相談を受け、その実現にむけてわたしに白羽の矢を立てたのです。それから2002年10月のJICA横浜海外移住資料館の開館まで、わたしは日本人の海外移住先を何度も訪ねることになるのですが、ハワイにうかがったときはいつも篠遠夫妻のお世話になりました。そして和子夫人には海外日系人社会の博物館関係者を招聘した2000年6月の有識者会議で助言をもとめ、その一端は海外移住資料館の展示案内『われら新世界に参加す』にメッセージとして掲載されています。2002年12月の開所式のときにもお越しいただきました。

篠遠和子氏(向かって右)と城田愛研究員(当時)とハワイ展示の前で。

また奥様とF.王堂との共著『図説ハワイ日本人史―1885-1924』(ビショップ博物館人類学部ハワイ移民資料保存館、1985)は展示構想を練る際にいちばん頼りにした文献でした。その書物の刊行と、ハワイ移民資料保存館の創設に際しては日本万国博覧会記念協会補助金(万博基金)が役立てられていたことも特記していいかもしれません。

他方、篠遠先生にはJICA訪問団に対しバスやガイドの件で有益な助言をいただいただけでなく、実際の手配までしてくださったことが忘れられません。考古学の発掘作業での実務経験がこんなところにまで生きていたのだとおもいます。また、篠遠先生から託されて民博オセアニア展示場の「葬儀長の衣装」(復元)に関する写真と資料を印東道子先生に届けたことも思い出されます。わたしはたんなる運び屋にすぎなかったのですが、実はこの資料、キャプテン・クックがタヒチの首長から贈呈され大英博物館やビショップ博物館などに所蔵されているものをタヒチのアーティストが復元したものなのです。今回の特集には言及がないので、ひと言、補足しておきたいとおもいます。

中牧理事長、英国王立人類学協会から名誉フェローを授与

当財団の中牧弘允理事長に、人類学の発展に広く貢献してきた世界最古の学会、英国王立人類学協会(RAI)より名誉フェローの 称号が授与されました。
この栄えある名誉フェローの授与は、日本では中根千枝先生に続いて2人目です!

理事長徒然草(第5話)
「カクレキリシタンを訪ねる旅に参加して」

新元号「令和」が決定して約半月が経ちました。元号は明治以来、一世一元にあらたまり、践祚(せんそ)にともなう代始改元のみとなりました。これはほんの一例ですが、明治からすべてが一新されたかようなイメージをわれわれはとかくもちがちです。しかし、去る2月の国立民族学博物館友の会、第80回体験セミナー「長崎県、潜伏キリシタンの足跡を訪ねる」に個人参加して以来、維新とは言っても江戸時代をかなり引きずっていたことが多々あることに気づかされるようになりました。

キリシタン禁制もそのひとつです。大政奉還、王政復古となってもキリシタン禁制は解かれませんでした。吹田市立博物館が所蔵する高札を見ると慶応4年3月に奉行に代わって太政官がおなじ文面のお触れをだしています(写真)。淀藩主も淀藩知事に名称が変わっただけです。キリシタン禁制が解けるのは、禁教令が撤廃された1873年からです。

その1873年は改暦が断行された年でもあります。中国から導入し、江戸時代に京都を基準に改変をくわえた太陰太陽暦(一般には太陰暦ないし旧暦と言われる暦法)を廃止し、西洋の太陽暦(グレゴリオ暦)を採用しました。グレゴリオ暦はキリスト生誕紀元の紀年法をもちいていますから、もはやキリスト教を禁じることはできなくなったと言えます。グレゴリオ暦への改暦とキリシタン禁教令の撤廃は表裏一体をなすものであったかとおもわれます。

さて、3泊4日の体験セミナーは同行講師の宮崎賢太郎氏(長崎純心大学名誉教授)による懇切な解説で充実した内容となりました。現場での説明はもとより、ホテルでのレクチャーも2回にわたり、たっぷり時間をとったものでした。とくに強調されたのは、①禁教令が解かれるまでの「潜伏キリシタン」と解除後の「カクレキリシタン」の区別、ならびに②カクレキリシタンは隠れてもいなければ、教義をわきまえたキリスト教徒でもないこと、むしろ③キリシタン的要素はあるものの、先祖を大切にし、ケガレやタタリをおそれる日本の民衆信仰そのものであること、などでした。

実際、2カ所でオラショ(祈祷)を唱えてもらいましたが、これは講師の同行なくしては実現できなかったことです。また、家の祭壇のならびも御前様(カクレ独特の崇拝対象)を中心に左右に仏壇と神棚を配するものでした。宮崎氏によれば、それは「仏教と神道とキリシタンの三位一体」の神を等しく拝むことの実証でもありました。ただ、私流に言わせてもらえれば、従来「重層信仰」と称されてきたシンクレティズムは、この場合、「並列信仰」という形容のほうがふさわしいと感じました。三つの神を同時に拝むときはどうするのかという参加者の質問に対し、少し後ろにさがって(三つの祭壇を視野に収めて)拝すると答えられたのには感心しました。
潜伏キリシタンに関してはこれまで「仏教や神道を装い,秘かにキリスト教の信仰を守り通した」という「夢とロマンの殉教史観」が流布してきたと宮崎氏は主張し、カトリック教会や学界の通念に異を唱えています。参加者の皆さんもその主張にじっくり耳を傾け、講義終了後も議論が続いたことはうれしいかぎりでした。

今回は生月島、平戸島、それに五島をめぐりましたが、盛りだくさんでわたし自身、まだ消化しきれていません。個人的には、離れ小島の野崎島で丘の中腹にある旧野首教会まで歩いて到達できなかったとき、軽トラで送迎してもらったことが感謝とともに印象にのこっています(写真)。良い「冥土の土産」(わたしの口癖)ができました。

体験セミナーに参加された方がたもそれぞれに有意義な旅であったことをねがっています。また、講師の宮崎氏にはとりわけ世話になりました。いたらない先輩の顔を立て、ときには杖となってくださり、誠にありがとうございました。

y体験セミナーの様子

第35回人文機構シンポジウム 参加申込フォーム

第35回人文機構シンポジウム 「中東と日本をつなぐ音の道―音楽から地球社会の共生を考える」 参加ご希望の方は、以下のフォームに必要事項をご入力のうえ、お申し込みください。
本講演会は定員に達したため、受付を終了いたします。たくさんのご応募ありがとうございました。