理事長徒然草(第2話)
「中国の第7回国際工商人類学大会に参加して」

写真1 銀川空港にて

2018年4月25日(金)~27日(土)にかけて寧夏回族自治区の銀川で開催された第7回国際工商人類学大会(The 7th International Conference on Business Anthropology 2018)に「国際著名学者」として招聘され、基調講演をおこないました。銀川は「一帯一路」政策の拠点都市のひとつであり、空港をはじめ、あちこちに建設ラッシュの槌音が聞こえ、開発の最前線であることが実感させられました(写真1)。近郊には西夏王国の王陵があり、賀蘭山岩画の遺跡もあって、映画のロケ地セットともども、観光名所となっています。

写真2 大会記念写真

大会は寧夏大学を会場にひらかれました(写真2)。しかし、実質的な推進者は田广教授(汕頭大学)であり、かれは中国のビジネス人類学の立役者の1人でもあります。『工商人類学』(寧夏人民出版社、2012)という周大鳴との共著があり、今回も周涛、馬建福と共著で出版したばかりの『管理与工商人類学』(寧夏人民出版社、2018)の寄贈を受けました。その共著者の一人、北方民族大学の馬建福教授が大会では田教授の右腕となっていました。また民博にもシンポジウムで招聘したことがある旧知の張剛教授(雲南財経大学)も主要な役割を果たしていました(夜の飲み会を含め)。

 日本からはわたしのほかに八木規子准教授(聖学院大学)、マリー・レイゼル講師(立教大学)、朱藝助教(筑波大学)が参加しました。登録日の25日には一緒に王墓や岩画の見学に赴き、親交を深めました。

写真3 開会式&基調講演会場の受付にて

 わたしは26日の基調講演では5名の演者の4番目に登壇し、30分ほど民博の共同研究を基盤とした「経営人類学」について、25年にわたる「創世記」を語りました(写真3)。研究成果の実物も何冊か持参して紹介しました(写真4~6)。その講演では日本の経営人類学の特徴として、①経営学と人類学の共同作業を基本としていて、人類学の一分野をめざしているわけではないこと、②会社を利益集団としてよりも「民族」に類比できる生活共同体、文化共同体の側面から把握しようとしていること、③これまで企業博物館、会社神社、社葬、会社神話などをテーマとしてとりあげてきたことなどを話しました。また外部者による評価にもふれ、長年にわたる研究成果が20冊を越える単行本や報告書として結実していることにも言及しました。そして「学派」として認められるためには50冊が必要だと東方出版の社長から言われたことを引き合いに、「道半ばである」と結びました。

写真4 広西民族大学学報
写真5 『むかし大名、いま会社』の中国語版
写真6 国立民族学博物館SES

 大会とは別に、外国からの基調講演者は1キロほど離れたところにある北方民族大学で、事前の打診もなく、順番に講義を依頼されました。わたしも27日の午後3時から5時半まで英語(逐次通訳付)の講義をしました。さいわい2012年に北京大学でおこなった講義のパワーポイントがあり、中国語の画面をたよりに遂行できました。さらに大会の基調講演も学生に分かりやすい解説をつけて再現しました。学生たちは日本の経営人類学に感銘を受けた様子でしたが、最後にでた「歳をとっているのになぜ研究を続けているのか」との質問には虚を突かれました。咄嗟に、「70にして心の欲するところにしたがってのりをこえず」という孔子の教えを引用し、「自分のしたいことをしているのだ。道を踏み外さないようにしながら」と返答しました。しかし、質問には「何が悲しくて・・・」といったニュアンスも読み取れました。というのも、田教授は大会のとあるセッションで、工商人類学ないし「ビジネスと人類学」をやればリッチで高名になると力説していたからです。学生には日本の老学者はリッチには見えなかったのかもしれません。

写真7 馬茜さんと

 その晩の会食には民博に外国人研究員として長期滞在していた馬茜さん(寧夏行政学院准教授)も駆けつけてくれ、旧交を温めました(写真7)。

 プログラムが出国前日に届いたり、人によっては届かなかったりで、先行きが危ぶまれましたが、これがトヨタ方式ならぬ中国方式のジャスト・イン・タイムだと、いささか皮肉を込めたコメントを添えて、大会での任務が無事終わったことを報告いたします。(2018年5月30日記)